2015年夏

アニメとパチスロ

新年(度)を迎えて

あけましておめでとうございます。

2018年の漢字は「災」でありますが、私も災多き1年を過ごして参りました。あれだけ好きだったパチスロの熱も大分冷め、真人間としてのある程度真な災を受けながら過ごす事が出来たようで何よりです。

 

過去を振り返らず先の夢を見据え行動する事は一定の美徳とされている昨今ですが、やはり過去の出来事を踏まえての自分の現在を見つめ直す事は現在の己の立ち位置をはっきりさせるうえで大変重要なことと感じます故、少々振り返り記録させていただこうと思います。

 

2018年の私を表す言葉は「消火器」であります。あるべき場所にあるとしっくりくるのですが、いざ使おうとなると使い方が分からないような、そんな無力さを自覚した年でした。この表現はネットのどこかで聞き齧った物です。

就職活動もスローに始めておりましたが、やはり1年以上先の事について行動する事は難しく、中々進歩のないものだったように感じます。上辺だけを上手く繕い(繕えていたかは不明だが)、程よく満足して過ごしていたように思います。

 

ここまでは2019年の頭に書いたものですが、ここからは2019年4月に書き足す運びとなります。

タイトルのあけましておめでとうという言葉もすっかりホコリを被り、新年度を迎えた訳でありますが、私の就職活動も最盛期を迎えております。

当ブログも細々と、誰の目にも留まることはないと思いますが、続けていければなと考えるところです。

近いうちにまた更新できれば。

日常系アニメの終着点

皆さんはアニメを観たことがあるだろうか?

 

多くの人は幼い頃に「ドラえもん」や「アンパンマン」といったような空想上の世界を描いたアニメを視聴し、その世界に夢を抱いただろう。

 

2000年代に発展を迎えた深夜アニメにおいても、対象の年齢層がやや上昇したのみで、基本的なスタンスは「夢」といったものに終始し、その世界は当然幻想のものとして理解されている。

 

しかし、2000年代中盤に革命が起きる。

「日常系アニメ」である。

 

2018年現在、日常系アニメはアニメ界において幅広く認知されるものとなった。
日常系アニメの一般的な理解は、可能な限りストーリー性を排除し、可愛いキャラクターや奇抜なキャラクターが学校ないしは何かの施設などの限られた空間の中でキャッキャウフフするのをまったり眺める、という感じだと思うのだがここでふと疑問が浮かんだ。

 

あれ?日常系アニメの最終話って悲し過ぎない?

 

この問題を考える前に、自分の中の日常系アニメ観について述べていく。

 

日常系アニメの現代に至る人気の原点はここにあるだろうという作品をまず見ていく。

 

2007年のらき☆すた

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その後のけいおん!

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らき☆すた」も「けいおん!」も共に学校を舞台とし、それぞれ部室なり、教室なりというかなり限られた空間の中でのそれぞれの出会いや歓談というものが描かれている。

 

これらのヒットをきっかけに日常系アニメは一気に市民権を得たのではないだろうか。


自分もアニメにハマってから3年たらずというかなりの日常系アニメ初学者だが、この日常系アニメというものにどっぷりと漬かっている。

 

自分が初めてハマった日常系アニメは「ゆるゆり」である。

 

ゆるゆり1期 第5話より

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かなり有名なアニメなのでこの作品についての詳細な説明は割愛するが、女の子が何人も出て来て楽しく学校生活を送る、王道の日常系アニメである。


2015年の秋に放送された「ゆるゆり さん☆ハイ」(ゆるゆりの3期)の1話を観た瞬間、

「キャラが可愛過ぎる」という理由で急いで1期と2期を視聴し3期のオンエアに乗り遅れないようにした事を覚えている。

 

しかしこの日常系アニメの最終話は何故か他ジャンルのアニメのそれより圧倒的に喪失感が大きいのである。

本来まったり視聴できるはずの日常系アニメ、最終回が悲しい理由は一体なんなのだろうか。

 

ここで本題に戻る。

前述のゆるゆり3期最終話「満開桜に浪漫の嵐」の終盤でメイン4人が京子の同人誌の製作を手伝い、友情を再確認するという場面がある。なんてことはない、1話から11話まで同じように彼女達は彼女達の日常を満喫し、それを自分は視聴し、ほっこりとしていた。

 

しかし、自分はその最終話だけ泣いた。

 

当時視聴した事のあった、きちんとストーリーの存在するアニメの最終話(魔法少女まどか☆マギカpsycho-passなど)は「ああ、終わっちゃったな」程度の寂寥しか感じなかったのだが、ゆるゆりの最終話では汚い涙をボロボロ落としてしまったのだ。


それからというもの、日常系アニメの作品の最終話を見るたび同じように泣いていることに気がついたのだ。

 

前置きがかなり長くなってしまったが、今回はその

「日常系アニメの最終話の謎の悲しさ」について考えていこうと思う。

 

日常系アニメを観る時に、「よし、日常系アニメをガッツリ観てやるぞ」と意気込んでから視聴する人はどれだけいるだろうか。


私自身は、日常系アニメを観る時には「まあ放送してるし観るか」程度の気持ちで視聴する。キャラクターが可愛い、作画が好き、製作会社が好き、原作が好きなど視聴を継続する理由は多々あるが、その始めの取っ掛かりは大した理由などないのだ。

 

ただ視聴を続けていくうちに「こいつのここが萌えポイントだ…」というような萌えオタ特有の気持ち悪い感情が生まれて来て、徐々に徐々に推しキャラクターが生まれ、その作品への愛が深まっていくのである。


さらに、先にも述べたように、日常系アニメのキャラクターははかなり限られた空間でしか存在しない。
学校であったり、それぞれの自宅であったり、海、温泉などいわゆる「定番」の場所でしか活動をしない。


この2つが今回のテーマに大きく関係しているのではないだろうか。

キャラクター別への愛が感情の移入に繋がり、さらに、視聴者自身も学生時代に経験したような「定番」の限られた空間でのイベントがその愛を増幅させ、強い感情移入が発生する。


視聴を続けていくうちにその感情がどんどん大きくなり、最終的には自らもその日常の中の一員とどこかで錯覚してしまっているのではないだろうか。

 

そんな中、最終話が訪れる。


画面の中のキャラクターはいつも通りの平穏な日常を送り、終盤ではお互いの絆を再確認し、これからもずっと一緒にいようねなどと宣っている。

 

だが、その中にいるはずの画面の外側の自分はそこには存在しておらず、正座してそのアニメの2期を待つか脳内でその後のサイドストーリーを補完するしかなくなってしまうのである。日常系アニメを舞台にしたssが特に人気なのも納得がいく。

 

例えるなら、死である。


ただ、この場合はその日常の中から自分自身が死んでしまったという表現の方が正しいように思う。
さらに希望がないのは視聴していたアニメの人気が無い場合である。続編もssもろくに作られず、多くの人の記憶の底で「そんなアニメもあったな」と言う程度で完全な死を迎えてしまう。

 

聖地巡礼」やグッズ収集も、その死んだアニメによって空いてしまった心の穴を埋めるための一つの逃走手段に過ぎない。

 

すなわち三者三葉を観ていた自分は2年以上死んでいる。

 

2016年春「三者三葉

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もちろん他の日常系アニメである程度その喪失感は満たされるのかもしれないが、一度死んだものは返ってこない。

日常系アニメの最終話で失ったものを取り戻そうとする過程で、また新たなものを失う準備をしてしまうのである。

 

このような流れで、日常系アニメの最終話で非常に悲しい気持ちになってしまうのである。

一度手を出した瞬間、3ヶ月後には死ぬ運命を辿ってしまう。
このままでは悲し過ぎるのでゆるゆりは早く4期の製作に取り掛かって欲しい。